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てんかん発作/ヲタがヲタにつきつけた残酷な天使のテーゼ、にゃるら「NEEDY GIRLS OVERDOSE」


こんにちは、いつもニコニコ元気なマンコ、IQ127の絶対美少女ミッキーです。

2年ぶりにぐらいに、てんかん発作を起こしてしまって、非常に調子が悪い。

そんな調子の悪い中、ゲームをやりながら色々考えた。

調子が悪いので、いつものような「IQ127」と呼べるようなキレはないかもしれない。




■■ ヲタ文化が目指す先は破滅なのか?それとも、幸福なのか?


ヲタ文化が地上に根付いて40年ほどが経過した。

私が観測する限り、人はヲタに染まれば染まるほど、不幸になるようだ。

具体的に、どういう点で不幸になるかというと、恋愛、仕事、健康だ。

つまり、全般的にダメになる。私はSNSで、非常に広い範囲の人間を観測している。

人間は、ある傾向を示しだすと、そこからはどんどん悪くなる。例外はない。


不幸の大きな鍵を握るのは「言葉遣い」だ。ヲタの特徴は「ボキャブラリーが弱い」こと。

1.人は「ヲタになろう!」と決意すると、まず最初に、オシャレな流行り言葉としてネット構文を使い始める。

2.やがて、ネット構文でしか物事を考えられなくなったり、他人に気持ちを伝えられなくなる。

3.最後に、社会や会社、他者との本格的に隔絶される。


ちなみに、この「不幸システム」は、ヲタだけではなく、ヤンキーも同様だ。

1.人は、ヤンキーになろうと決意すると、まず最初に、変な言葉遣いをはじめる。

2.ヤンキー言葉は、最初はただの表面的なファッションだ。しかし、だんだんこれが脳内に根付いてくる。

そして、ヤンキー構文でしか物事を考えられなくなったり、他人に気持ちを伝えられなくなる。

3.最後に、社会や会社、他者との本格的に隔絶される。


「言葉」は重要だ。若い頃は、顔の可愛さ、身振り手振りの「仕草」で色々な物事が伝えられる。

「女の涙」というのは強烈な武器だ。泣けば全て許される。また、男も、気に入らなければ相手をぶん殴ればいい。ところが、歳をとればとるほど、コミュニケーションにおける言葉の重要性が増してくる。


自分自身のボキャブラリーと、アイディア、哲学、感情がマッチしなくなってきたら、人々はどうするか?

「よし、恋愛力、仕事力を身に着けるために、今から国語力をつけよう!」だなんて思わない。

ただ、静かにあきらめるのだ。そして、そこで終わる。


勿論、人生は死ぬまで「終わり」はないわけだから。

気づいてやり直す努力をすれば、必ず良い方向に向かうとは思う。


宗教団体真メグデスは、ダメな人間の何がダメかを指摘してマウントして、ギャハハと笑いたいわけではない。

みんなに気づいてもらって、みんなに幸福になってもらいたいのだ。

「ボキャブラリーが貧困な人間は不幸になる」というのは、私がSNSを観測して知りえた「真実」だ。

これは本当に、例外はない。


今の時代は、恋愛をするにしても、仕事をするにしても、必ず「文章」を書かないといけない。

文章のスキルで、手に入る恋や仕事の「質」が変わる。つまり「幸福」の大きさが変わるのだ。

これは、なんらおかしなことではない。


近年は、理系の思考を重んじ、文系の思考を軽んじる傾向があるのかもしれない。

しかし、恋愛において重要なのは文系的な思考だ。

日常会話においても文系的なユーモアだ。

理系と文系、どちらが重要ということではなくて、どちらも重要なのだ。


だから、自分は不幸だと感じている人間は、まず、本を読め。

オマエの不幸の原因の8割は、ボキャブラリーの貧しさから来ている。



私が観測する限り、ヲタが仕事で大失敗するだとか、手痛い失恋をするだとか、そういうことはない。

そもそも、ボキャブラリーの弱い人間には、大きな恋愛だとか、大きな仕事の機会がやってこない。

そして、ただただ、年齢とともに、孤立が深まるだけだ。


私は、人々が不幸になっていく姿を眺めるのがツライ。だから、私は宗教団体をやっている。

これまで、私はSNS上で、無数の説法をしてきた。

先ほども、私は、こう説法した。


「本を読め」


それ以外にも、「それはダメだ!」「それはこうしろ!」だとか、なにか危険を察知するたびに注意してきた。

私のSNSは説法だらけだ。しかし、説教をされて嬉しい人間などいるわけがない。

だから、私が他者を救えたことは一度もない。


無力だ。

メグデスが他者を救い、他者に感謝される宗教団体になるには、まだ、超えなくてはいけないハードルが無数にある。

道は果てしなく遠い。しかし、私はこの道を歩き続ける。なぜならば、人を救いたいから。

みんなの笑顔が見たいから。


◇ 「笑顔」とは何か?


私はIQ127でアタマの回転が速い。

だから、芸能人のように、単に面白いことを言って「人を笑わせる」というのは、私にとって難しいことではない。

戦後の「娯楽」が少ない時代においては、「笑い」というのはとても大切なモノだったと思う。

しかし、今の時代のように、いつもみんながニヤニヤしている時代に必要なのは「笑い」ではなく「救い」だと思う。

「人を笑わせたい」と思う人は、いくらでもいるのよ。その才能を持っている人はわずかだけど。

でも、「笑い」は「集合知」でなんとかなる。

私がこのネタを披露しなくても、別の誰かが別のネタを披露して、それで笑いが起こるなら、別にそれでいい。


でも、メグデスが提示する「救い」の概念・哲学は、メグデス以外では踏み込めない領域。

メグデスがやるしかない。


1.先ほど、私は「本を読め」と述べた。これは「救い」のひとつだ。

2.また「二次元の美少女を、嫁や彼女だと思わずに、ただの肉便器だと思え」というのも、私が考案した「救い」だ。


本を読むことでどうして救われるのか?

また、二次元の美少女を嫁や彼女だと考えないことで、どうして救われるのか?

全てに理由がある。別に、大した理屈じゃない。言われれば、誰もが、そりゃそうだと思う話ばかりだ。

しかし、言わなければ、誰も気づかない。だから、言わなくてはいけない。


ある種の人間は、ヲタ文化に染まりながらも、全く幸福に生きることができる。

しかし、ある種の人間は、ヲタ文化に染まったことで、人生が破綻する。

この差がどこで生まれたのか?アタマが悪いと、これが見えない。

メグデスがやるべき仕事は「それはこう考えなさい、それはそう考えてはダメです」という指針を示すこと。

指針を示すことによって、人々を幸福へ導く。その、幸福の結果としての笑顔を私は見たい。


ちなみに「二次元美少女」を「嫁、彼女」と思ってはいけない理由は「他者への愛と自己への愛を混同するな」という意味が込められている。

「創作」されたキャラの「造形」を見て、美しいと感じ、発情しているうちは「他者(モノ)」への敬意がある。ところが、キャラを所有した気になり、脳内で「嫁、彼女」として動かしたり会話を始めてしまうと「自己愛」の世界に入ってしまう。

行き過ぎた「自己愛」は、社会からの孤立に直結するからやめなさいと、私は説いている。

言われれば「そりゃそうだ」と思うはずだ。でも、言われなくては見えないのだ。




■■ ヲタ文化が「有害」だと認知されたら、ヲタ文化は排除される


唐突だが、私は喫煙者だ。タバコの有害性が明確になればなるほど、社会からタバコが抹殺されていく。

私自身も、そろそろタバコをやめなくてはいけないなと感じている。

私が発作で倒れるようになったのは、間違いなく、タバコが原因だ。

それでもやめられず、続けているのだ。

しかし、倒れるたびに「タバコをやめろ」ときつく言われる。私自身も「やめなきゃいけないな」と思う。

最終的には、やめるんだろうと思う。まだ、心の整理がついていないだけで。


ヲタ文化も、今は「プラスだ」と考えられているから普及している。

しかし「有害だ」と認知されたら、排除されていくことになるだろう。

人生に失敗したヲタが、いくら「ヲタ文化は人々を幸福にする」と演説してもダメだろう。


私は、ヲタ文化を愛しているので、ヲタ文化をより良いものにしていきたい。

「ヲタ文化を良いものにしていく」というのは、作品の内容や表現に手を入れることではなくて、受け手側の思想哲学を鍛えていくことだと思う。

それには「難しい領域で、難しい議論」を行うことが必要だ。


先日発売されたゲーム「NEEDY GIRLS OVERDOSE」は、ヲタとして「何はよくて、何はダメなのか」という命題を色々と与えてくれる。



■ 「NEEDY GIRLS OVERDOSE」はヲタがヲタにつきつけた、残酷な天使のテーゼ


「NEEDY GIRLS OVERDORS」は、今を時めくゲームクリエイター、にゃるらがシナリオを担当した「最悪」のゲームだ。

にゃるらは、間違いなく「現代のヲタ文化」のシンボルの一人なのだが、ここで「ヲタ代表」の立場を降りて、「成功者、文化人」としてヲタを上から見下す側に回ってしまった。

にゃるらに先行してヲタを裏切ったのは、庵野秀明だろう。


私は「ヲタ・クリエイター」が嫌いだ。彼らは、最初は「ヲタ代表」として振舞う。

しかし、成功してお金を手に入れた瞬間、すっと立場を変化させる。「いつまでアニメ観てるの?」と。

今後も、こういう「手のひら返し」のクリエイターは増えてくるだろう。

ヲタ文化は泥船だし、そろそろ、潮時なのだ。皆、それをわかってる。


「オレは漫画が好きだ!」と、死ぬまで全力投球だった手塚治虫や藤子不二雄Fと、庵野秀明やにゃるらは、クリエイターとしての立場の取り方がかなり違う。

手塚治虫や藤子不二雄Fの根底には「人間の命に対する敬意」がある。

その上で「生きるというのはこういうことではないか?」ということを作品を通して、人々に訴えかける。


一方、庵野秀明やにゃるらの根底にあるのは「人間に対する絶望」だ。

「人間って、こういうくだらない生き物だよね」とショッキングな事実を突きつける。

その残酷な視点こそが、彼らの売りだ。そこにみんな食いつく。

そして、「人間をバカにしたい人間」をファンとして取り込んで強大化していく。


ところが、ある瞬間に裏切る。

「オマエらってこうだよね、オレは違うけど。だから、オレ様はオマエと違って成功したんだけどさ」となる。

そう、庵野秀明やにゃるらの「売り」は、「残酷さ」だ。

そして、最も残酷ショーは、自分を信じてついてきた自分のファンを見せモノにすることだ。

つまり、庵野やにゃるらが、ファンを「殺してやりたい、追い込んでやりたい」と考えるのは、自然な帰結なのだ。


にゃるらの「NEEDY GIRLS OVERDORS」は、にゃるらが「ヲタ当事者」から「ヲタ観察者」へ立場を入れ替えた、その瞬間の心理を切り取った「最悪」の作品だと思う。

ここでいう「最悪」の意味は、にゃるらの「人間性」の話であって、作品としての面白さの話ではない。


▼ 「NEEDY GIRLS OVERDORS」は「今時のアホな女」が、アホな行動、アホな発言をするのを上から目線で眺めるだけのゲーム。ただし、このゲームのキャラクターが持つ「非人間的な思想哲学、ボキャブラリー」は、間違いなくリアルに存在するものであり、一切の誇張がない。

つまり、にゃるらは「今時の人間の薄っぺらさ」をゲーム内に漏れなく忠実に再現し、「今時の人間の命には1500円の価値しかない」ということを証明した。我々は、このゲームを通じて「今時の人間の薄っぺらさ」を今さらながらに体感して、恐怖する。


■ にゃるらの「パッケージング能力」


にゃるらは「人生に失敗するヲタ」を、見事に描写している。

その描写がいかに緻密かを、上の画像から文章を引用して説明しよう。

ヲタ的なボキャブラリーの大きな特徴は「嘘、大げさ、まぎらわしい」ということだ。


1.「あ~専用のコントローラー欲しい!!!」

2.「一生愛してるからね 一生だよ?」

3.「視聴者数5億とかになれ!!!!!!」


この3つには優先順位がない。ここが「ヲタ的な思考」のポイントだ。


・「視聴者数5億」というのはありえない数字なので、これは「冗談」であるはずだ。

・一方「コントローラーが欲しい」というのは、数千円の話なので、買おうと思えば買える話だ。

・その「冗談」と「数千円の買い物」の話の間に「一生愛している」という、とてつもなく重い話が紛れ込んでいる。この「愛している」は冗談なのか、あるいは、数千円の価値の話なのか、あるいは、それ以上の「重さ」なのか、よくわからない。


物事の優先順位を破壊して、均一に大げさにするというのは、ヲタが非常に好む話法だ。

「笑いのアイディア」としては悪くない。

最初は「冗談、ノリ」でこれをやる。しかし、だんだん、それが「自分の思考回路」になってくる。

つまり、どうでもいいことが凄く大切なことのように思えるようになり、凄く大切なことがどうでもいいことのように思えるようになってくる。

だんだんと、「自分の人生に優先順位がつけられなくなっていく」。

最後は「死」がある。物事の優先順位がごちゃごちゃになれば、自分の生死もよくわからない。

子供が生まれても殺すだろう。


人間が破滅するのには、きちんと手順があるのだ。にゃるらは、その「人間が破滅する手順」を、どこまでもきっちりと残酷にパッケージングしたのだ。







■■ にゃるらは「最悪の人間」、だからこそ「NEEDY GIRLS OVERDORS」には大きな価値がある


私は「裏切り者」が好きではない。だから「仲間(ヲタ)」を切り売りしたにゃるらは最悪な人間だなと思う。

私は、エヴァンゲリオンもテレビ版しか観たことがないし、にゃるらの作品も、これぐらいしかしらない。

つまり、よく知らないのに、直観だけで話をしている。でも、私の直観の7割は当たる。

私のこの、直観のブログも、3割ぐらいは的外れなことを言ってるんじゃないかと思う。でも、7割は当たってる、はず。


「NEEDY GIRLS OVERDORS」は、商品としては「アホな人間のアホさを、細部に至るまで、あますところなくパッケージングしている」という点で、物凄く面白い。

これはこれでゲームとして存分に楽しめば良いと思う。

しかし、ゲームの性質上、プレイヤーは、どうしても「ヲタとしての、次なる自分の生き方」を考えざるを得ないのではないか。

それをどう考えるのかが難しい。


にゃるらは、人の精神を傷つけてヘラヘラ笑うのが仕事だ。私はどう頑張っても、にゃるらより「面白い」作品は作れない。

しかし、メグデスは宗教団体だ。人の精神を救うのが仕事であり、この領域は、メグデスのほうがにゃるらより優れている。

だから、最後に「NEEDY GIRLS OVERDORS」との向き合い方を伝えておきたい。


■ 幸福とは「丁寧に生きること」


「NEEDY GIRLS OVERDORS」をプレイしたら、次は「自分にとって幸福とはなんだろう?」ということを、じっくり考えてみて欲しい。

「NEEDY GIRLS OVERDORS」の女性キャラクターは「ファンが増えることが幸福」だと考えていると思う。

また、ほとんどのヲタの男性は「顔面偏差値の高い女とセックスすること」こそが、人生の最大の喜びだと考えていると思う。

そして、そのどちらも幸せになれないということは、このゲームをやった人間なら「実感」として理解できるはずだ。

ファンが増えても、自分が成長するわけではない。また、配信者が伸びても、自分が成長するわけではない。

じゃあ、お互い、何を頑張れば幸せになれるのか?

そういうことを考える「きっかけ」として、このゲームは存在するのではないかなと思う。


私がメグデスの信者に伝えたいのは、何よりもまず「豊富なボキャブラリーを身につけましょう」ということ。

「NEEDY GIRLS OVERDORS」の不幸の出発点は、なによりもまず、女性のボキャブラリーのみじめさから出発している。この女性が、このボキャブラリーのまま、何かしらの幸福を得ることはできないのよ。

まずは、豊かで、精度の高いボキャブラリーを身につけましょう。


次に「物事に優先度をつけましょう」。ボキャブラリーが貧困で精度が悪いと、優先度がつけられない。しかし、豊かなボキャブラリーを身に着けたら、大切なものとそうでないものの仕分けができるようになる。


1.愛を伝えるときは、しっかりと愛を伝えなくてはいけない。

2.コントローラーを買うときは、しっかりコントローラーを調べなくてはいけない。

3.視聴者を増やしたいなら、そのことに集中すべきよね。


今、この瞬間、あなたがすべきことは、どれなのか?1~3はそれぞれ、全く別のボキャブラリーが必要。

愛を語るためのボキャブラリーと、購入するコントローラーを選定するために必要なボキャブラリーは、全く別なのよ。どれでもいいのよ。1~3のどれでもいい。そして、それとしっかり向き合って、必要な知識とボキャブラリーを身に着けたら、次のステップに進める。そうやって、次のステップへ「成長」していけば、新しい世界が次々に広がって、それが「幸福」になる。


つまり、幸福とは「丁寧に生きること」なのよね。ヲタは何もかも雑なの。

全てが粗い。全てが思い込み。全てがいい加減。だから、何やっても成功しない。だから、死ぬしかない。

ヲタ本人は「どうして、私の人生は不幸なんだろう?」と理由が見えないんだけど、私にはすぐ答えが見えちゃう。

「雑なのよ」

ここを変えましょう。

「雑に生きるのは良くないな」

そういうことに気づく「反面教師」として、「NEEDY GIRLS OVERDORS」をプレイしたら、得るものは大きいんじゃないかな。

少なくとも、このゲームをやって、ただヘラヘラ笑うだけじゃダメよ。我々は大きな時代の転換期に来ている。ヲタのバージョンをあげるのか、あるいは、脱ヲタを目指すのか、それはわからない。でも、もう「テンプレ型のヲタ」では人生を生き抜けないことはわかったわけだから、何か別の形態を目指さなきゃダメなのよ。


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以上





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